2012年7月20日金曜日


2007年

  • 4月、中学3年生に。イジメはますますエスカレートし、「ある日学校から帰ってポストを開けたら、汚い字で『もう学校に来ないでください。よろしくお願いします』って書いてあった。ついにお願いされちゃった。よっぽど私の存在が嫌いだったんでしょうね。全否定。ははは…」。指原は「くだらない」とつぶやいて、その手紙をゴミ箱に捨てたという。「誰にも言わなかった。面倒くさいから…心配されるとか」[18]
  • 夏休みが明けた頃から、学校を休みがちに。[18]
  • 9月、ちょうど進路を考え始める時期で、指原は人付き合いが苦手な事もあり、高校に行くのはどうかと考える。英語だけは好きだったから、オーストラリアに留学したいとも思っていた。そんな時に、AKB48のオーディションが募集されている事を知る。「受かったら東京の高校に行けばいいから、最初で最後のチャンスだと決めて、応募したんです。そしたら1次に受かったんです。2次は東京だから、お母さんにメールしたんです。お父さんは、『まあ絶対落ちるから、思い出作りに観光してきな』って言ってくれました」。だが父とは、2次に受かっても次の最終審査は受けないという約束をしていた。[25]
  • 2次審査の面接を受けるため上京。父の言葉通り東京観光し、秋葉原のAKB48劇場に行く。「福岡でAKBを見たことはあったけど、劇場は初めてでした。そこでひまわり1stを観ました。こんな所に立てるなら、絶対受かりたいと思ってしまったんです」。余談ではあるが、AKBメンバーになった後、『BINGO!』で倉持明日香が自分に向かってサビを踊ってたと思い込み、「一緒にBINGO踊ったんだよ~」と倉持本人に言ったらしい。[26]他にも素人時代に、野呂佳代柏木由紀等とハイタッチをした事があると言っているが、メンバーの方はやはり覚えていないとか。[27]
  • 2次審査も合格し、父に“一生のお願い”として最終審査も受けさせて欲しいと頼み込む。とにかく頭を下げ、なんとかもう一度東京へ行ける事になった。[25]
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最終オーディション日
(当時14歳)

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研究生時代
(当時15歳)
  • 10月、再び東京に来てダンスと歌の最終審査を受ける。「最終は40人ぐらいいました。その中でも、小原春香(現SDN48)と鬼頭桃菜(現SKE48)の二人のオーラがすごくて、印象に残っていますね。あとみゃお(宮崎美穂)。北原は印象なかったですね」。[2]肝心の最終審査は、歌もダンスもダメダメ。「『BINGO!』を歌ったんですけど、緊張のあまり声が全部裏返ったんですよ」。だがなぜか奇跡的に合格。「どうしようかと思いました。帰りの飛行機で、お母さんと話し合いになりました。反対されました。『たぶんダメって言うけど、お父さんの言う通りにしなさい』と言われました。でも、予想を裏切って、『いいんじゃない?』と言ってくれたんです」。こうして、アイドル指原莉乃が誕生した。[25]
  • アイドルが大好きだったオタクな女の子が、本当にアイドルになったというレアな経歴の持ち主。アイドルオタクを誰よりも知り、同じオタク目線でトークができる点を、プロデューサーの秋元康が評価しているらしい。[28]
  • ところが事務所からの連絡は、待てど暮らせど来なかった。「半年間、音沙汰が無かったんですよ! ふざけんなって書いといて下さい! だってこっちは東京の高校も決めないといけないじゃないですか。なのに本当に1回も連絡が来なかったんです。オーディションを受けてから長い間が空いてしまって、合格してないんじゃないかと考えてしまいました。AKB関連ブログに、『ひまわり2ndで5期生デビュー』って書いてあるのを見て、私ダメだったんだって思ったぐらいですから」[25]

2008年

  • 2月、ようやく事態が動き出した。「『一週間後に東京に来て下さい』って連絡が来たんです」。ついに念願の東京へ引っ越すことに。友達は少なかったが、一番の親友にだけ「芸能人になりたいから、東京へ行く」とだけ告げた。「AKB48のメンバーになった」とは言えなかった。[25]

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